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中大兄皇子と葛城皇子は別人ではないか。
中大兄皇子は九州の皇子ではないか。 という仮説を元に話を進めてきましたが、肝心の「中」(なか)と「大兄皇子」の問題が解決されていませんでした。 中大兄皇子が先述したとおり、もし「九州」の人だとすれば、その名につく「中」は、当然、「那珂」でしかありません。 那珂って? 古代、福岡のあたりは筑紫の「那珂」「中」と呼ばれていました。 「那珂川」「那珂郡」とかに今もその名が残っています。 中大兄皇子は那珂大兄皇子。 そう、那珂大兄皇子! また、万葉集に「中皇命」の読んだ歌が記録されています。 この「中皇命(ナカノスメラミコト)」というのが誰のことなのか今だ学会でも定説がありません。 この歌の紹介は割愛させていただきますが(他意はありません)、この歌に対する「反歌」は「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」という歌です。 この歌に出てくる地名は九州筑前の地名だとし、この歌は筑前で歌われた歌である。また、「中皇命」の「中」も筑前の「中・那珂」を意味するのではないかという説(古田武彦説)があります。 また、一説では、この歌は舒明(ジョメイ)天皇の歌だとも言われています。 だったら、この舒明天皇も九州・筑紫・那珂に大変関係の深い人物だということになります。 そして、この舒明天皇は、何を隠そう、あの「葛城皇子」(中大兄皇子)の父なのです! また、舒明天皇の妃であり、中大兄皇子の母でもある斉明天皇が亡くなった場所は、実は「九州・筑紫」だと日本書紀にはっきりと記されているのです。 ただし、例の白村江へ向かう途中に筑紫で亡くなったということですが・・・。 父である舒明天皇が中皇命(那珂皇命)。 母である斉明天皇の亡くなったのも筑紫(那珂)。 そおうだとすれば、当然、その子供である中大兄皇子の「中」も「那珂」。 そう考えても、それ程無茶な話でもない気がするのですが・・・。 おまけですが、大化の改新を中大兄皇子と二人で成し遂げたあの中臣(藤原)鎌足。 一説では、その「中臣」も「筑紫の中(那珂)の臣」だとも言われています。 中大兄皇子の周りは那珂だらけ! このように考えてきますと、中大兄皇子が「中」という一見抽象的かとも思われる呼ばれかたをした理由や、葛城皇子の名が一度しか表れず突然消えた理由、また天智天皇が異常とも思えるほど「親百済」だった理由、そして、大和朝廷が、また日本書紀が「中大兄皇子」の本名を書けなかった理由も合わせて見えてくるような気がします。 いや、堂々と本名を書いていたと言った方が正しいのかも知れません。 「中」大兄皇子と。 (中大兄皇子の謎・終) #
by web-gorilla5
| 2006-04-17 23:24
日本書紀では、白村江で惨敗した中大兄皇子や大海皇子達は急遽近畿大和に逃げ帰ったことになっています。
「逃げ帰る」のと「逃げる」のとでは全く意味が違います。 中大兄皇子が九州筑紫の人間とするならば、これは、逃げ帰ったのではなく、「逃げてきた」という事になります。 では、中大兄皇子と葛城皇子が別人だと言う仮説に従えば、この時、葛城皇子はどこで何をしていたのでしょう? 実は、葛城皇子は、母斉明天皇の崩御後、大和において天皇として即位していたのではないかと考えられるのです。 葛城天皇? そう、葛城天皇です。 しかし、日本書紀には、斉明(皇極)天皇が崩御した年(661年)に、中大兄皇子が「称制(ショウセイ)」(摂政)として政務を執り始めたとあります。 そして、この年が「天智元年」とされています。 葛城の「か」の字も書かれていません。 ① 斉明天皇の崩御後、中大兄皇子が摂政となった。 ② 斉明天皇の崩御後、葛城皇子が天皇となった。[ さあ、どっちが正しいのでしょうか? もちろん、今回の仮説は、「葛城皇子が天皇となった。」です。 そんな頃、中大兄皇子が九州軍と百済の残兵を引き連れ、近畿方面に逃げのびて来ました。 もちろん、大和には「天皇・葛城皇子」がいます。 葛城皇子(天皇)が、中大兄皇子の軍と多くの百済の残兵を、すんなり近畿に、ましてや大和に迎え入れるとは考えられません。 当然、何らかの軋轢があったと思われます。 そして、7年後、中大兄皇子は天皇(天智天皇)となり、新王朝を立てるのです。 ということは・・・・。 そうです、やっぱり、葛城皇子は中大兄皇子に殺害されたのです。 そう考えることによって辻褄が合うのです。 葛城天皇の寿命は「7年!」でした。 中大兄皇子は葛城皇子を排除したものの、葛城皇子派の人間が多く残っている大和に新王朝を立てるのはさすがに危険過ぎます。 そして、斉明天皇崩御の「7年後」、中大兄皇子は滋賀の大津に宮殿を造営し、天智天皇として即位したのです。 日本書紀は、天智は多くの百済人を要職に就けたと記しています (続く) #
by web-gorilla5
| 2006-04-17 21:44
白村江で惨敗した百済王室の生き残りと中大兄皇子軍は、朝鮮半島から九州まで逃げ帰ります。
そして、戦勝国・唐は百済の熊津に、占領政府とも言うべき「都督府」を設置したと日本書紀に書かれています。 また、同じ頃、九州筑紫(今の福岡)にも「都督府」が設置されたことも書かれているのですが、この九州に設置された都督府については、唐が設置したものではなく、大和朝廷が設置したものだとする説が有力なのです。 しかし、大和朝廷が、よりによって敵方である唐の政府機関である「都督府」という同じ呼称を使用するでしょうか? 考えられません! この九州筑紫に設置された「都督府」も唐が設置したものだとすべきでしょう。 何しろ、唐と戦って大惨敗したのは、百済と倭(日本)なのですから、百済の熊津に設置したのが唐であるなら、倭(九州)に設置したのも唐であると考えるのが自然だと思うのですが・・・。 仮に、九州筑紫に設置された「都督府」が唐の設置したものであるならば、これは、少なくとも九州北部までもが唐と新羅の占領下に置かれてしまったということに他なりません。 言い換えれば、当時の九州、少なくとも北部九州は唐という大国をバックにした新羅のものになっていたということです。 したがって、惨敗し、筑紫まで逃げ帰った中大兄皇子や百済王室の人たちは、唐が都督府を筑紫に設置し、駐屯兵を派兵する事になったのであれば、当然、その九州・筑紫にも居れません。 やがて多くの百済人民をも引き連れ、東方(主に近江)に向かうことになります。 (続く) #
by web-gorilla5
| 2006-04-17 18:18
なぜ、こんなに堂々と負け戦が描写されているのか?
通常、国史においては、自国、もしくは当事者の都合が悪い事は基本的には、また直接的には書かないものです。 それを、あえて書いているということは、ましてや堂々とまるで他人事の如く書かれているということは、当然、そこには、何らかの思惑、理由あると考えねばなりません。 それが、国史の持つ性格なのです。 では、一体、この「白村江の戦」の惨敗描写の持つ意味は何なのでしょう? チョット、勘ぐってみましょう。 再び、仮説です。 白村江の戦の「百済・倭」の連合軍の「倭」とは、その主戦力は実は大和朝廷軍(天皇軍)ではなく、「九州軍」ではなかったのか。 もっと大胆に言えば、ひょっとしたら、これは「九州軍」だけの戦いだったのではないのか? つまり、大和朝廷は白村江の戦には参加していなかったのではないのか? 「他人の負け戦」だったからこそ、あんなに堂々と負け戦の状況を書けたのではないか。 言い換えれば、この時代においても、まだ「大和朝廷」が日本(倭)を完全統一していたのではなく、北九州や吉備(岡山)、東海等多くの地方勢力との「連合国家」だったのではないかとも考えられるのです。 もちろん、日本書紀には、とっくの昔に大和朝廷が倭国(日本)を統一したことになっていますが・・・。 九州軍? そう、九州軍。 そして、その九州軍の総大将が中大兄皇子だったのではないか・・・。 チョット大胆すぎたかな? (続く) #
by web-gorilla5
| 2006-04-11 23:11
| 中大兄皇子の謎
663年、朝鮮半島の白村江で、朝鮮半島の権益、国家の存亡を賭けた一大決戦が行われました。
この大決戦は「唐・新羅」軍と「百済・倭(日本)」軍のそれぞれの連合軍の戦いでしたが、この戦いは「唐・新羅」連合軍の圧倒的な勝利のもとに幕を閉じました。 この敗戦によって百済は完全に滅亡し、朝鮮半島は新羅による統一へと向かいます。 この白村江の戦に、百済援軍のために大和朝廷は、斉明天皇を筆頭に中大兄皇子、大海人皇子達や彼等の妃ともども、兵2万7000の大船団を組んで、大和朝廷総出で出陣、朝鮮半島に渡海したというのです。 奈良の都は、まるで、もぬけの殻状態です。 他国(百済)の援軍のために、大和から朝鮮半島まで天皇家総出で出かけて行ったと言うのです。 信じられますか? 信じられません! そして、結果は大惨敗! ましてや、その様子を日本書紀は、「官軍敗れぬ。水に赴きて溺れ死ぬ者多し。舳艫めぐらすことを得ず。・・・たちまちに敗れ、水に落ちて死ぬ者が相次いだ。船の舳先を廻らすこともできなかった。・・・」と伝えています。 大惨敗した屈辱の模様が詳しく述べられているのです。 余りにも堂々と描かれているのです。 おかしいと思いませんか? (続く) #
by web-gorilla5
| 2006-04-11 23:02
| 中大兄皇子の謎
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