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ここで一つの仮説を立ててみましょう。
仮説・・・? ゴメンナサイ! 暴説・・・かも知れません。 その仮説とは・・・「葛城皇子と中大兄皇子は別人」ではないかと言うものですが・・・。 やはり、暴説ですか? いや、案外・・・かも!? 661年、斉明天皇が崩御したあと、実は、第一子である「葛城皇子」が慣例通りに天皇に即位したのではないか。 しかし、その7年後の668年(天智7年)、「中大兄皇子たる者」が「葛城天皇」を廃し、「天智天皇」として即位したのではないか。 というものですが・・・。 つまり、中大兄皇子の「摂政」の事実などなかったと。 だとすれば、葛城皇子は? まさか! 中大兄皇子に殺されたってこと? かも知れません。 中大兄皇子が「摂政」だったという7年間。 天皇になることをかたくなに拒んだとされる7年間。 私には、この「7年間」が臭うのです。 実は、この「7年間の謎」に、「白村江(ハクスキノエ)の戦」が大きく関係しているのではないかと思うのですが・・・。 (続く) #
by web-gorilla5
| 2006-04-09 21:29
| 中大兄皇子の謎
ここで,先の日本書紀の記事を思い出して下さい。
「宝皇女を立てて皇后とした。皇后は二男一女を生まれた。第一は葛城皇子、第二は間人皇女、第三は大海人皇子である。」という記事です。 「・・・第一は葛城皇子・・・」。 そうです。葛城皇子です。 中大兄皇子とは書かれていません。 母である斉明天皇が崩御し、なおかつ異母兄の古人大兄皇子もこの世にいないとなれば、当然、第一子の「葛城皇子」が皇位を継承するのが当然でしょう。 しかし、日本書紀には、皇太子である中大兄皇子(葛城皇子とは書かれていません。)が、天皇になったのではなく、「摂政」として政務を執ったと、(私に言わせれば)「さりげなく」書かれているのです。 天皇になったのではなく、摂政になったというのです。 摂政というのは、天皇が重病だとか、幼少で政務が執れない時に置かれるのが普通です。 でもこの場合は違います。 前述したように、中大兄皇子が天皇になろうとすればなれる状況にありました。 しかし、中大兄皇子は自らの意思で即位を拒んだとされています。 不可解です。 不自然です。 摂政になるくらいなら、天皇に即位しても大差ないように思うのですが・・・。 しかし、中大兄皇子は拒みました。 そして、もちろん、この「摂政」となったのも、「葛城皇子」ではなく、「中大兄皇子」だと書かれているのです。 臭います。 (続く) #
by web-gorilla5
| 2006-04-05 22:19
| 中大兄皇子の謎
実は、中大兄皇子にはもう一つ「葛城(カツラギ)皇子」という立派な名前があります。
日本書紀、舒明天皇2年の条に、「宝皇女(タカラノヒメミコ)を立てて皇后とした。皇后は二男一女を生まれた。第一は葛城皇子、第二は間人(ハシヒト)皇女、第三は大海人皇子である。」とハッキリと書かれています。 ちなみに、前出の古人大兄皇子は異母兄で母は宝皇女ではありません。 しかし、日本書紀に「葛城皇子」が登場するのはこの一回きりです。 たった一回きりなのです。 その後はすべて「中大兄皇子」として登場します。 葛城皇子はどこに行ってしまったのでしょう? 「葛城皇子」というれっきとした名前がある中大兄皇子。 言われているように、「中」が次男や真ん中という意味だと言うのであれば、「中大兄皇子」じゃなく、「葛城大兄皇子」もしくは「葛城皇子」と呼ばれるべきではないかと思うのですが・・・。 中大兄皇子が皇太子として立太子したのが皇極4年(645年)。 かの有名な大化の改新のすぐ後です。 そして、母である斉明(皇極)天皇が崩御した年(661年)に「称制(ショウセイ)」(摂政)として政務を執り始めます。 この年が「天智元年」とされています。 天智元年? 「元号」とは本来、天皇が晴れて即位した時から始まる極めて重要な意味を持つものです。 天智天皇が即位したのは天智7年(668年)です。 そうならば、天智天皇が即位したこの668年が本来「天智元年」でなければおかしい・・・と思いませんか? いくら政務を取り仕切っていたとはいえ身分はあくまで「皇太子」です。 皇太子時代に遡って「天智元号」を使用するのは、何か私には腑に落ちません。 百歩譲って、中大兄皇子が摂政となった時点は天皇不在だったのだから、摂政就任時を天智元年としたことを認めましょう。 しかし、天智元号を名乗るくらいなら、いっそ、天皇になればいい。 そう思いませんか? 天皇になれない余程の理由があれば別です。 この時点では、異母兄の古人大兄皇子は既にこの世にはいません。 中大兄皇子以上に天皇になる資格、実力を備えた人物は見当たりません。 名実共に、中大兄皇子が第一人者だったのです。 なのに、なぜ・・・? #
by web-gorilla5
| 2006-04-01 21:28
| 中大兄皇子の謎
中大兄皇子(ナカノオオエノミコ)。
後の天智(テンジ)天皇です。 この天皇には多くの謎があります。 例えば、弟である大海人皇子(オオアマノミコ。後の天武天皇)は,兄であるはずの中大兄皇子より年上ではないか? そして、二人は実の兄弟ではないのではないか? 額田王(ヌカタノオオキミ)を巡る三角関係の実態は? また、中大兄皇子の娘が4人も弟である大海人皇子に嫁いでいるのはなぜか? などなど・・・。 ホントに多くの謎を持った天皇です。 もちろん、これらの謎については従来から多くの説があります。 これらの謎も気になるところですが、今回は、従来あまり注目されていない、少し違った角度から「中大兄皇子の謎」にチャレンジしてみたいと思います。 中大兄皇子。ナカノオオエノミコ。ナカノオオエノオオジ。 この名前に疑問を感じたことはありませんか? 「大兄皇子」と名のつく人物には、中大兄皇子の他にも山背(ヤマシロ)大兄皇子、古人(フルヒト)大兄皇子、彦人(ヒコヒト)大兄皇子等がいますが、それぞれ大兄皇子の前には、「山背」「古人」「彦人」という名前あるいは土地の名前らしきものがついています。 しかし「中大兄皇子」についているのは「中」です。 「中」? この「中」とは一体何を意味するのでしょうか? 私にはどうもこの「中」が引っ掛かるのです。 中大兄皇子は舒明(ジョメイ)天皇の皇子です。 この舒明天皇の長男は古人大兄皇子(異母兄)で、弟が大海人皇子(同母弟・後の天武天皇)です。 中大兄皇子の「中」については、従来、中大兄皇子は「次男」扱いのため、また、「三人兄弟」の真ん中だから「中大兄」と呼ばれていたのだとされています。 次男だから「中」? 真ん中だから「中」? 名前はないの? しかし、古人大兄皇子は謀叛の疑いをかけられ、弟である中大兄皇子によって殺されます。 古人大兄皇子が死んでからは、中大兄皇子は実質「長男」であり、「皇太子」であり、「皇位継承順位筆頭」の立場でした。 そんな人物が、「中大兄」と言うような抽象的な、また、ある意味においては屈辱的とも考えられる「中」を、即位するまでの23年間も使用し続けたとは余りにも不自然に思えるのですが・・・。 おかしいと思いませんか? #
by web-gorilla5
| 2006-03-30 21:25
| 中大兄皇子の謎
「相撲のはじまり」の垂仁7年7月7日。
「埴輪のはじまり」の垂仁32年7月6日。 そして、主人公はどちらも野見宿禰。 前述したように、仮に、この二つの記事が連動していて、尚且つ、それらの日付が作られたものだとしたら、臭うのが「7月7日」と「7月6日」というこの一日違いの日付です。 7月6日が埴輪のはじまり。 つまり、「垂仁天皇の皇后が亡くなった時に、生きた人間を生贄(イケニエ)にする今までの殉葬儀礼を廃止して、人の代わりに埴輪にしたらどうかとスクネが天皇に提案した」という記事です。 そして、7月7日が相撲のはじまり。 これが、仮に、埴輪のはじまりと同じ年の事だったとしたらどうでしょう? 同じ年の出来事なのに、訳あって、別の年次の事として書いたのだととしたらどうでしょう? わたしは、これらの二つの記事は同じ年の出来事だという事を、この「7月6日」、「7月7日」という二つの月日と野見宿禰という両記事に共通の人物をあしらうことによって、ある事実を暗示しているように思えるのです。 つまり、7月6日に皇后が亡くなった。 天皇や皇后などの貴人が亡くなれば、当然、その側近達は直ちに葬儀の準備に取り掛からねばならない。 しかし、その「葬儀の準備」が問題なのです。 実は、その時代には、まだ、天皇や皇后などの貴人の葬送儀礼の中には『殉葬』の儀礼が残っていました。 もっと古い時代、例えば100年程前の例の邪馬台国の卑弥呼が死んだ時にも、100人もの人が殉死したと魏志倭人伝にも書かれています。その後も、少なくともこの垂仁天皇の時代までは『殉葬』儀礼が続いていた事は、先の「埴輪のはじまり」の記事において自ら明らかにされています。 だとすれば、 側近たちが直ぐにもやらなければならなかったこと、それは、「殉葬に共する者」を決めることです。 つまり、殉葬に必要な生贄(イケニエ)を決めなければならなかったのです。 7月6日に皇后が亡くなった。 そして、皇后が亡くなった翌日、つまり、7月7日に相撲の儀式が行われた。 もう、お分かりですね。 そうです。相撲に負けた方が生贄にならなければならなかったのです。 つまり、当麻蹶速(タイマノケハヤ)が生贄となったのです。 相撲は生贄を決めるための儀式だったのです。 ケハヤの死に方、殺され方も尋常ではありません。 《・・・スクネがケハヤを蹴りあげ、肋骨を折り、腰を踏みくだき殺した。・・・》 この、尋常ではない死に方、殺され方も、私には「殉死」を暗示しているように思えるのですが・・・。 考え過ぎでしょうか? 国史である日本書紀にとって、それほど重要だとも思えない「相撲のはじまり」の記事。その記事(多分、創作でしょうが)があえて書かれた理由も見えてきたのではないでしょうか? 日本書紀が書かれた8世紀初頭においては、生きた人間を生贄とする儀式は、野蛮で忌わしい儀式だとして既に廃止されていた儀式だったのでしょう。 しかし、過去の天皇家の葬送儀礼において、『殉葬』が行われていたのも事実でした。 国史の編者としては、それが事実であれば、その事実を書き留めておかなければならない立場です。 しかし、その実情については、堂々と書けるものではない。 編者としては、腕の見せ所だったのです。 (相撲のはじまり・終) #
by web-gorilla5
| 2006-03-27 23:44
| 相撲のはじまり
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